映画「アドルフの画集」の感想 |
最初映画館で見た時はいまいちな印象であった。ヒトラー役の演技が少し大げさに見えたのと、設定がやや架空な点である。しかし再度見てみるととても良い。製作者は本当によくヒトラーを勉強している。ナチ映画などビデオ屋に行くと掃いて捨てるほどあるが、アドルフ・ヒトラーの思想背景とその成立過程をまともに映画化したのは(できたのは)恐らく映画史上初めてではないかと思う。
映画は画家志望のヒトラーが反ユダヤ主義の扇動政治家に成長(?)するまでの姿を描いてる。事実上の主役はアドルフ・ヒトラーに加え、失業状態にあるヒトラーに右翼宣伝活動を勧誘するドイツ陸軍諜報担当将校カール・マイヤー大尉と、ヒトラーの画家としての活動を支援するユダヤ系画商マックス・ロスマンである。マイヤー大尉は実在の人物であるが、ロスマンは完全に架空の人物である。ロスマンはユダヤ系ブルジョワ一族に育ち、元バイエルン陸軍騎兵将校で一級鉄十字賞叙勲、片腕を失った傷痍軍人であり、個人的には未来派の愛好者であるが、パウル・クレー、ゲオルク・グロスが所属し、現代芸術の父マルセル・デュシャンとも親交のある超一流のプライマリ・ギャラリー経営者である。実際にはヒトラーは青春時代このようなまともな日の当たる美術系エリートと親しくなった形跡は全く無い。彼の経歴は単純で
美大受験失敗→ルンペン画家→陸軍兵士→政治家
となりその間に特に進路で逆行した形跡は見られない。従ってこの映画は完全にフィクションなのだが、ヒトラーの取り巻きの中で唯一友人待遇されていた人物、建築家のアルベルト・シュペアーは、ヒトラーは自分を本質的に芸術家だと考えていたと後年述べている。実際彼が残した建造物や都市計画モデル、彼の著作を読む限り、彼の政治的同輩スターリンとは異なり芸術や建築に対する個人的な偏愛に死ぬまで取り付かれていたらしい。従ってこの映画は敗戦後のドイツで支配層の崩壊と、既成概念を覆すような芸術の創造、旧支配層がばらまく卑劣な人種的妄想と社会主義、貧困、格差、その中から生まれたナチ思想の指導者を事実とフィクションを織り交ぜながら描いている作品ということになる。
敗戦期のごたごたの中、ロスマンは鉄工所を改造した画廊でブルジョワ向けに表現主義抽象画の展覧会を実施する。そこに偶然現れたのが復員後まだ無職無名のアドルフ・ヒトラーである。彼が描いたへたくそな19世紀風アカデミー崩れの写実画に対しロスマンはより深い表現をしろとアドバイスし、ヒトラーは激怒する。ヒトラーは一方マイヤー大尉から右翼のプロパガンディストになることを勧められ、辻演説をやることになる。反ユダヤ主義の萌芽が含まれたヒトラーの演説を見たユダヤ系のロスマンはヒトラーに金を与え画業に専念するように諭す。次第にヒトラーは演説でも絵画でも才能の片鱗を示し始める。かつての未来派を想起させる異常な新古典主義のデッサンを見たロスマンはついにヒトラーの芸術的才能を発見し大々的個展を企画する。しかしその日のマイヤー大尉の懇願によるお義理の代役演説で全ての破滅が起きるという筋である。
多分この映画はナチ思想及び近代芸術の知識のない人が見ても全然面白くない。上記の基本的な美術用語に加えて、映画で「スタック・イン・ザ・バック」と何度も繰り返され、実際にヴァイマル・ドイツで蔓延した「背後の匕首」伝説に関する理解が必須である。
これは第一次大戦では本当はドイツ・オーストリア=ハンガリー軍は優勢だったのが、国内の裏切り者、つまり共産主義者とユダヤ人の裏切りによって負けたとする陰謀論である。現代日本でも右・左問わず陰謀論は日常の政治的光景になってしまったが、この時代この種の陰謀論を吹聴していたのは敗戦によって権威を喪失したプロイセン軍人貴族に代表されるドイツの退廃した上流階級であった。陰謀論の本質は責任転嫁である。敗戦の原因は我々ではなく我々の内部に潜んでいる裏切り者のあいつらなのですよ、裏切り者のあいつらが我々を滅ぼそうと今も虎視眈々と狙っているのですよ、という話。
マイヤー大尉がヒトラー達復員兵に見せたフォン・リーバーフェルト少佐なる薄気味悪い小男が座長の反ユダヤ主義プロパガンダ人形劇団のシーンはなかなか秀逸である。フォンは貴族の姓の前に冠せられることが多く、将校は欧州では永らく上流階級子弟の高貴な責務とされてきた。退廃した貴族が貧しく絶望した下層兵士たちを猥褻なプロパガンダで扇動する構図。クライマックスはもちろん優秀なアーリア人兵士が悪魔のようなユダヤ女に誘惑され堕落してゆくシーンである。世紀末ヴィーン、ヴァイマル・ドイツでみられたこの種のポルノまがいのプロパガンダはヒトラーと彼のお気に入りの元小学校教師シュトライヒャーが好んだ宣伝手法で、それらはやがて国家の公式見解と化すことになる。
ヒトラーが組織する政治サークルの下品な男達の雰囲気もとても良い。この種の運動が社会の最低の屑によって最初形成され、やがて大衆に支持が浸透してゆく感じがよく出ている。クズ男にヒトラーが「何て教養のない奴らだ!」と罵声を浴びせるあたりもヒトラーらしくて良い。彼は実際高等教育を全く受けていないにもかかわらず膨大な偏向した読書によって恐るべき教養を身に着けていた。彼が生前話していたプライベート談話の内容を読むと並みの大学教授など全く屁でも無い頭の冴えが感じられるだろう。
しかし最も素晴らしいシーンは最後の代役演説である。マイヤー大尉は「君の頭脳が絵具で、聴衆がキャンパスだ。思い切り描け」と煽る。演目はナチファンおなじみの演目、ヒトラーの十八番、反ユダヤ主義である。ロスマンのシナゴーク礼拝とシンクロして進行する演説は、ヒトラーの著作「我が闘争」でしつこく繰り返されるあのでたらめの歴史であった。ユダヤ人が純粋無垢な我々アーリア人種の世界へ侵入し、金融と商業と文化産業を支配し、やがて退廃した文化で我々を汚染し、そしてドイツ女性はユダヤ人の性的奴隷と化したという演説である。この映画で描かれたヒトラーの憎悪、屈辱、怨恨が演説で炸裂する。彼同様現実世界に絶望した大衆はこの偽りと憎しみの歴史講義に狂喜し総立ちになる。この結果にヒトラーを政治活動に引きずり込んだ張本人マイヤー大尉は呆然と青ざめていた-
なぜマイヤー大尉は青ざめていたのか?大衆の反応が単に前の戦争が負けた恨みつらみや責任転嫁といった後ろ向きの怒りとは、もはや異質のものだったからある。大衆は過去と現在を憎むと同時に、明らかに輝かしい未来へ歓喜していた。ヒトラーはユダヤ人の陰謀に毒された偽の不可抗力的歴史を語ることによって、大衆へ進むべき戦慄の未来を暗示した。つまりヒトラーは反ユダヤ陰謀論を極限まで演繹し、演説で大衆へ言外にこう訴えたのである。
「陰謀こそが歴史を説明する鍵である。
いつの日か我々アーリア人はユダヤ人に代わり、ユダヤ人の手法を用いて世界を征服するだろう。
それ以外に我々の希望は無い。」と。
我々は今日ユダヤ系画商ロスマンと、ヒトラーに並ぶもうひとりの映画の主役、実在のマイヤー大尉及び彼が属していたドイツの上流階級がいかなる運命を辿ったのかを知っている。
マイヤー大尉は反ナチ活動に転じ、ヒトラー政権樹立後フランスへ亡命、彼の地でゲシュタポに逮捕されブーヘンヴァルト強制収容所で殺害された。
ヒトラー政権樹立に貢献したフォン・ヒンデンブルクやフォン・パーペンといったドイツ上流階級の多くがヒトラーなど下層民相手の小物に過ぎず、帝政時代支配階級であった自分達の意のままに操縦できる反共産主義の道具と見た。だがしかし大戦末期、ヒトラー暗殺未遂事件の実行者以下首謀者の多くが貴族から成る国防軍将校団であった。彼らは元共産主義者の狂信的ナチ裁判官によって死刑を宣告され、サーチライトが照射する中ピアノ線で吊るされた。
ドイツ上流階級は自らの失敗を陰謀論で焼き払おうと試み、結局自ら自身を焼いたのである。責任転嫁の罪は重く、その毒は無限大である。