映画「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」の感想 |
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2022年 05月 19日
ボルシェヴィキーの精鋭組織は「モスクヴァだけに地下鉄がある」という言明の本当の意味は他の都市の地下鉄はすべて破壊されねばならないことなのだとすぐ理解したから、パリで地下鉄を見ても別に意外とは思わなかったのである。・・・・(彼らは)あらゆる事実と現実に対する軽蔑を叩きこまれていた- ハンナ・アーレント「全体主義の起源」(1966)より ロシアによるウクライナ侵略戦争を機に観た映画。 独りよがりな机上の地政学的脅威に震え、信じたいと思う者以外何人も信じはしまい陰謀論をぶち上げ、ありもしない自民族迫害をでっち上げて隣国に侵攻する。 今日我々好事家が知りすぎるほど知っているあのヒトラーと全く同じ狂信的な行動パターンである。問題はロシア連邦共和国はナチス第三帝国と異なり世界最大の核保有国かつ国連安保理常任理事国であることなのだが。 しかし既に2014年クリミア半島侵略と欧米日による経済制裁によって、既にルーブルの対ドル価値は侵略前の半分にまで下落してしまっていた。この戦争は勝とうが負けようが、西側世界による経済制裁は更に苛烈を極め、ルーブルは紙屑と化し、物資は遮断され、ロシアの人々に貧困と失業をもたらす結果にしかなりえない。 恐らく元ボルシェヴィキ秘密工作員だったプーチンは、選挙によって元コメディアンのユダヤ人指導者を選んだウクライナの自由主義的性向が自国にまで伝染するのを恐れたのだろう。 西側世界との断絶、経済と国民生活への不気味な無関心、かつて中欧ハプスブルク帝国と東欧ロシア帝国の境界で分断されていた豊かな穀倉地帯ウクライナへの陰謀と攻撃、根無し草のコスモポリタン的性向を有するユダヤ人に対する憎悪・・・・ 歴史は繰り返された。 残忍だがどこか道化じみた一面もあったヒトラーよりも目立たたないが、歴史の勝者として遥かにその後の世界に爪痕を残した独裁者がかつてモスクワにいた。 ユーラシア大陸を強制労働と人工飢餓の地獄に変えた男、世界史上最悪の大量虐殺者、鋼鉄の男スターリンである- 映画は大英帝国の帝都ロンドンの閣議室において始まる。 ヴィクトリア朝の重厚なインテリアと壮麗なジェントルマン達。 1930年代当時の段階でどこか浮世離れしている。 WWⅠで全てが変わってしまった大陸を尻目に、彼らは「古き良き」あの邪悪なヴィクトリア朝の大英帝国の栄光の過去に微睡んでいるかのようであった。 現れた2人の中産階級出身ウェールズ人、首相ロイド・ジョージと彼の外務顧問にしてジャーナリストのガレス・ジョーンズ。このミスター・ジョーンズがこの映画の主人公である。 ミスター・ジョーンズはヒトラーとの接触・インタビューに成功。ヒトラーと戦争の脅威を訴えるも閣僚たちに一笑に付されてしまう。 英国上流階級の紳士たる閣僚達にとって再度の戦争など馬鹿げて聞こえたのだろう。それはあたかも欧州の黄金期であった前世紀、最良の教育と家柄によって育まれた理性の声のようであった。実際にはヒトラーの如き元乞食画家の狂信者が民主的選挙で首相に選ばれている時点で大陸の大衆にまともな理性など余り残っていなかったのだが。 ミスター・ジョーンズはロイド・ジョージの外務顧問をクビになる。 フリージャーナリストとなった彼がヒトラーのナチスドイツに次いで目を付けたのがスターリンが支配する新興共産主義国家、ソビエト連邦であった。 ソビエト連邦の経済成長は奇妙でウクライナで異変が起こっている。彼の友人のジャーナリストの電話がきっかけであった。 この国際電話は当然にしてソ連内務人民委員部(NKVD)によって盗聴されており、結局この友人は不審死するのだが・・・・ 早速モスクワへ乗り込むミスター・ジョーンズ。 世界大恐慌下、不景気にあえぐ資本主義国を尻目にソビエト連邦は異常な経済発展を遂げているかの様に見えた。ミスター・ジョーンズはこのソ連の好景気はウクライナに対する搾取によると見たのである。ミスター・ジョーンズの分析は的外れであった事が今日わかっている。これはそんなイギリスらしい帝国主義的な解釈に基づく単純な経済搾取などではなかった。実際にはソ連は国際経済から孤立しており、その経済運営は無理筋の無茶苦茶であり、かつ経済統計発表は全てデタラメのプロパガンダであったに過ぎなかった。恐らくスターリン時代のソ連には正確な経済統計など最初から存在しなかった。興味すらなかった。いかなる欠陥があろうとも畢竟経済活動は人間が相互扶助しながら最適に生存するための手段である。それは経済を無視あるいは嘲笑し、人民の敵という罪名のもと完全に無辜の人々に死刑判決を下し根こそぎ餓死させる、計画的な大量虐殺だったのだ。 ミスター・ジョーンズはスターリンに取材するためモスクワ駐在ニューヨークタイムス記者と面談する。この男はスターリンの御用記者の様な男だった。凍える街頭で貧しい人々が行き倒れる中、ニューヨークタイムス記者の主催する外人向けホテルのやけくそキメセク乱交パーティーがいい味を出している。ナチス映画などでもお馴染みの戦間期の退廃的風景。白人がクラシックな建造物でやると様になっている。 モスクワ取材では話にならないと考えたミスター・ジョーンズはロイド・ジョージの推薦状を改竄し、あたかもイギリス外務顧問官であるかのように偽ってウクライナ取材の許可を得る。 独裁国家でありがちであるがガイドと称する監視役付きである。手練れのNKVD諜報部員であろうこの男はミスター・ジョーンズの正体を見抜いていた。男がウォッカで飲んだくれている間に汽車から逃走。単独でウクライナ潜入に成功する。 ミスター・ジョーンズがウクライナで目撃したのは異常な人工飢餓であった。 しかしウクライナのシーンは実際の悲惨な人工飢餓の映像と比較すると表現が手ぬるく、逆にリアリティに乏しい。肉付きも良すぎる。 拒食症や病人のエキストラを大量に集めるのも無理があったのだろう。昔、同級生で拒食症の患者がいたが彼女の顔は頭骸骨の形状が完全に浮き出ていた。しかし今の特殊メイク技術ならこれ位出来そうな気もするが・・・ R-12指定といことで人肉食のシーンも一応あるにはあるが、どうせやるなら肉屋で人肉を並べているシーン位あっても良かったのではないだろうか。ユダヤ人大量虐殺映画ではこのクラスのえぐい場面はいくらでも登場する。 スターリンが小麦を抱いている巨大なプロパガンダ看板の足元で食料配給所で餓死寸前の市民がパンの争奪殴り合いをしている構図は印象的である。 この映画の真の主役たりし生身のスターリンは一切登場しない。でっち上げられた偽りの楽園の創造者の巨大な肖像は、殴り合いなから飢えて死にゆく大衆の眼上にただ無情に聳えているのだ。 結局ミスター・ジョーンズは秘密警察によって逮捕。 モスクワへ連行される。 6人の在露イギリス人をでっち上げのスパイ容疑で逮捕・拷問し、ミスター・ジョーンズに彼らの安全を保障したければウクライナに飢餓など存在しないと認めろと恫喝する高位共産党員。 ナイフで鉛筆を削りながら。カンナを削れば木屑が落ちる、あるいはAといった以上Bと言わなくてはならないという全体主義イデオロギーの演繹の連続の恐怖を示しているのであろう。 あらゆる事実と現実に対する軽蔑と冷笑、イデオロギーの理想の実現の為なら如何なる卑劣な犯罪もテロルも辞さない剥き出しの狂信性・・・これぞ国連世界人権宣言を嘲笑して止まなかったアンドレイ・ヴィシンスキーを彷彿とさせる、本物のボルシェヴィキ精鋭である。 このシーンだけでも中盤やや冗長な2時間映画を見る価値がある。 彼はあのニューヨークタイムスの御用記者のとりなしにより釈放されイギリスへ追放された。 御用記者のセリフも優れている。 「大義に犠牲はつきものだ」 「ソ連は人類の進化に寄与しようとしている」 その進化の為に2000万人もの人々の犠牲が必要だったのだろう。 恫喝をその場では受け入れイギリスへ強制送還されたジョーンズはイギリス政府やマスコミにウクライナ人工飢餓を告発する。その反応は冷たい物だった。建国間もないソ連はリベラル勢力からは社会主義の理想と平等を実現する実験と考えられており、政治的には台頭するナチスドイツの軍事的防波堤と見做されていたのだ(実際スターリンはナチス第三帝国を撲滅してしまったが)。 そんなジョーンズに救いの手を差し伸べたのは、ウクライナの人権問題など大して関心がありそうには見えないアメリカの残忍な新聞王、イエロージャーナリズムの権化、ウィリアム・ランドルフ・ハーストであった。ハーストはウェールズの由緒ある古城に巨万の富を費やし悪趣味な成金御殿に改造して滞在していた。それは当時歴史的建造物に対するレイプとまで評されていた。彼はライバル紙ニューヨークタイムズの記者が米ソ政府間でドヤ顔しているのは面白くなかったし、売れるネタであれば何でも良かったのだ。ジョーンズのウクライナ人工飢餓告発はハーストの巨大通信網で世界中に拡散されたのである。 数年後の1933年、ジョーンズは満州国取材中に恐らくというか、間違いなくソ連のNKVDに拉致・銃殺されて終了。 この映画を見て思ったのがスターリンの後継としてのプーチンは内部の敵、外部の敵問わず対敵テロルの詰めが甘すぎる。全てが甘い。スターリンは死の直前、側近達と共和国の未来について次のように嘆いた。 「私がいなくなったらどうなる?まるで生まれたての目の見えない子猫の様に陰謀を見抜く事が出来ない。この国は滅びてしまうだろう。」 我々は祈る。目の見えない子猫ですら大概です。お願いですから安らかに滅びてください。もう殺人は沢山です。 #
by kschinkel
| 2022-05-19 18:49
| 映画
2022年 01月 11日
職場と自宅の近所のツタヤが絶滅して久しく、主流のネット配信も何かマイナーな映画が少なそうで余り乗り気がせず、最近映画鑑賞はご無沙汰である。 今回リトアニアのヴィリニュス・ゲットー(独ゲットー・ヴィルナ)を舞台にした珍しい映画ということでyoutubeで鑑賞した次第。(Vilniaus getasで検索すれば今のところ観れます。日本語版DVDも有り) 音声がリトアニア語なので何を言っているのか謎だったが、ユダヤ人創作の歌劇映画である。 あらすじはサドで音楽マニアのナチ将校が、美しいユダヤ人女性歌手とその他元芸人にユダヤ劇団を結成させ、散々弄んだ後で、最後機関銃で全員射殺、変装して逃亡するという物である。 ジョシュア・ソボルなるイスラエルの劇作家が作った歌劇「ゲットー」(1984)を基に映画化された作品らしい。 ナチ将校の制服は何と親衛隊ではなくドイツ国防軍の襟章帽章。いくら指揮系統が無茶苦茶なナチスドイツでもさすがに国防軍将校がユダヤ人ゲットーの管理などやらないであろうと思って調べると、やはりモデルのブルーノ・キッテルは親衛隊員であった。 要するに歴史映画で非常によくある衣装考証ミスなのだが騎士十字章などをジャラジャラ付けておらず、ウソっぽく見えないので逆にタチが悪い。 このキッテルなる犯罪者、音楽の帝国オーストリアの演劇学校を卒業した音楽家であった。彼の射殺スタイルは独特で、犠牲者に対し丁寧に、動揺しないよう緊張しないよう依頼しながら静かに冷静に自動拳銃で撃ち殺したのだという。1943年ヴィリニュス・ゲットー解体を指揮した際、右手でユダヤ人少年を射殺し、左手でピアノの鍵盤を操っていたという狂気の殺人音楽家である。確かに映画でもサックスをブーブー吹いている。床屋のユダヤ人にタバコを手渡して射殺するシーンも、戦争末期ゲシュタポ・ミュラー同様忽然と行方をくらますシーンも史実らしい。 「ヒトラー 〜最期の12日間〜」で軍需大臣シュペーア教授役をやっていた俳優がユダヤ人ゲットー警察署長役というのは笑ってしまったが、拳銃を携行しているのもおかしい。反乱の危険性からユダヤ人ゲットー警察Jüdische Ghetto-Polizeiは火器携行禁止である。映画の様な制服自体恐らく存在しない・・・ この様な歌劇映画で一々歴史考証がどうこう突っ込むのもバカげているのでこの辺にしておく。ただ一見中途半端に歴史映画っぽく作ってあるため、背景知識なしで見た時はこれは一体何だと感じた。 この映画の見せ場は中盤の野外絞首刑執行シーンを除けば、音楽とダンス、コメディである。 初っ端の古典的なアリアも良かったが、カバレットリートやタンゴ、クレズマーなど軍楽調の暴力的で退廃的、冷たく荒れた1920-30年代のドイツ=ユダヤ通俗音楽が素晴らしい。ヴァイマル期のドイツ圏文化の雰囲気が好きな向きにはたまらないのではないだろうか? 元バレリーナのハンガリー人女優の現代的な細身のスタイルは、マレーネ・デートリッヒの様なグラマー女優が活躍していた戦間期当時は受けなかっただろうが、繊細で美しい。歌も無茶苦茶上手い。 悪役のナチ将校のお兄さんも音楽演奏中にちょくちょく邪魔するのが鬱陶しいが、いい味を出している。 惜しむらくはインチキ歴史ドラマのシーンが長く、見どころの音楽が余りに短い点である。フィクションなのだから音楽中に入る回想のナレーションも要らない。 戦間期ドイツ圏文化、あるいはミュージカル好きな方にはお勧めの奇妙な歌劇映画。 #
by kschinkel
| 2022-01-11 16:08
| 映画
2021年 09月 10日
今でも断続的に続いているらしいテレビドラマシリーズ「世にも奇妙な物語」。1990年放送開始当時見た時は新鮮に思ったが、珍奇で斬新な怪談アイディアなど永遠に続く筈もなく、ブロットの二番煎じが目について見なくなった。大体実際にはありもしない子供だましの怪談話なのだが、この回だけは異質だったので鮮明に覚えている。 原作はジェームズ・クラベルの短編小説「23分間の奇跡」。子供たちが学校で23分で架空の全体主義侵略者に洗脳されるという代物だ。近所の本屋に在庫が無かったのでまだ読んでいないのだが、この種の全体主義系の表現活動にしろ政治分析にしろアングロサクソン系は大概ダメだと思う。伝統的に思考回路が全体主義イデオロギーの演繹の連続とは相いれない帰納法で、かつ個人の自由や権利の自己主張が激しすぎるのである。彼らは全体主義が根本的に理解できないのだ。 近年もナチスと日本が勝利した架空世界のアメリカドラマがあったが、ちょっと見ただけで駄作であることが分かった。(放映途中で打ち切り)見どころと言えば最新CGで構築した世界首都ゲルマニアの風景と、ナチスがニューヨークの自由の女神を爆破解体するシーン位だろう。フランス第三共和政とアメリカ独立革命の自由の象徴の爆破解体・・・うっとりする光景で素晴らしい!(笑) 残念ながら我が日本は東アジア特有の根性論と暗記中心教育のために思考が帰納も演繹もダメダメで、個人の自由や権利の主張もできない腑抜けの国民性であるために、全体主義と非常に相性が良い。情勢が微妙な1930年代によりによって残忍なナチスドイツと軍事同盟を結ぶという最悪の愚行を犯し、ナチスやソ連をモデルとした全体主義体制を構築し(1940年体制)、共に戦争を戦い、破滅した。 ナチスがニュースになる度に、同盟国ではあるが同類ではない日本(笑)を主張するために杉原千畝の名前を引っ張り出すのは見苦しく恥ずかしい。彼は殺戮寸前のユダヤ人3000人にヴィザを発行するという人道的行為、あるいは外交関係を破壊しかねない重大な職務命令違反によって、外務省をクビになったのである。つまり彼はあの時代の日本社会では例外的変人、国家の裏切り者、あるいは反社会的人間のカテゴリーに属していたのだ。 という訳でこの種のドラマはアメリカ人よりも日本人がやったほうが真に迫っている。1991年といえば特別高等警察と陸軍憲兵隊による全体主義支配の暴力と魅惑を肌で体験している戦前世代が多数健在だったことも生々しさを倍加させているだろう。 朝九時、教師が小学校生徒の前で泣いているシーンで始まる。一体何が起こったのだろうか? そこへ若く美しい制服姿の女性が入ってくる。彼女は新しくやってきた新任の教師であった。醜い悪者がドヤ顔で登場するのは子供向けマンガだけの話である。実際には悪はしばしば美しく蠱惑的な笑顔で現れるのだ。前任教師は泣きながら教室から校長室へ退場させられた。 新しい女教師は自己紹介し巧みに生徒たちを手懐けていく。当初不審に見られていた女教師は巧みな弁舌によって、次第に生徒達に受け入れられていく。一人の反抗的生徒を除いて。 反抗的生徒は日本国はクーデターが起きて憲法が改定され、彼の父親は大勢の人達によってどこかへ連行されたことを教室で暴露する。冒頭の泣きながら消えた前担任教師、そしてこの反抗的生徒による暴露から、日本は日本国憲法を敵視する謎の政治勢力によってクーデターが起き、新しい政権が国権を掌握したことが明らかになる。 それに対する女教師の回答は、彼の父親は「間違った考え」を持っていたために「学校」へ行った。お父さんは「学校」で正しい考えを学習して戻ってくるであろうと。憲法はすでに改定済であると。新しい政治体制は思想の自由を全く認めない全体主義政権であり、「学校」と称する施設は恐らく、世界観的敵を裁判抜きで拘禁・絶滅するための強制収容所である。彼の父親はもう二度と彼の前に戻ってくることは無いのだろう。 女教師は目をつぶって「神様」にお祈りをしてお菓子をお願いする事を生徒達に提案する。生徒たちが目を開けても何の変化も無かった。 右翼だろうと左翼だろうと全体主義者は、体制移行期における多少の黙認を許したとしても結局宗教とは全く相いれない。なぜならイデオロギーこそが唯一絶対の未来の全人類の理想と正義なのであって、それ以外の神だの宗教経典だのは退廃した過去の歴史的廃棄物、あるいは全体的支配に対する障害物以外の何物でもないからである。 神様への祈りに代わって、女教師は生徒たちに「指導者様」にお願いをさせて、目をつぶらせている間にお菓子を配る。実際には「指導者様」ではなく女教師が配っているに過ぎないと反抗的生徒が暴露するが、女教師は動じない。当然である。「指導者様」へのお願いによってお菓子を得たというのは、眼前に迫る事実であって、その過程が如何なるものであろうと、新しい万能の「指導者様」の偉大さが揺るぎはしないのだから。個々の過程を軽蔑し抹殺するのは全体主義特有の思考回路である。個々の事情、個々の人々、こうした概念はもはや何の意味もない。あるのは唯一「指導者様」の意志のみである。この恐ろしい体制において人間が生きるには「指導者様」に縋るしかないのだが、同時にイデオロギーの理想から外れた人間はその言動にかかわらず眼前から消滅するのである。あの冒頭の元担任教師のように。 煩い反抗的生徒を手懐けるために、女教師は真に天才的な政治指導能力を発揮する。優れたリーダーシップを理由に彼をクラス委員に任命するのである。秘められた権力への誘惑と同級生たちの羨望の視線に屈服した反抗的生徒はこれを渋々受諾する。彼は転向者特有の屈辱感と罪悪感と不安感から、より深く狂信的な新しい体制の先兵となるのだろう。ちっぽけな見せかけだけの権力と引き換えに。 女教師は早速新しいクラス委員を焚き付け、元担任教師が書いた「平等・自由・平和」の扁額を窓から投げ捨てさせる。かつて日本国憲法が規定し、国権の最高法規によって主権者たる国民に保障された概念であった「平等・自由・平和」。校庭で砕け散った額を見て生徒達は歓声を上げるのであった。 女教師の巧みな指導によって、たったの23分で生徒達は全員新しい世界と体制に順応した。女教師は思想教育の仕上げに旧体制下の教科書を生徒達自身の手で破り捨てさせる。歓喜の中、全ての生徒が、人類が人間として尊厳をもって生きるために歴史の過程で積み上げてきた多くの事象と結果が記述されていたであろう古い教科書を競うように破った。ヒトラーやスターリンの例を挙げるまでもなく、優れた全体主義指導者は大衆を恫喝による強制ではなく、自発的あるいは狂信的に体制に奉仕させるのである。 この架空の世界の行きつく先は、平等も自由も平和も消滅した新しい世界、全てが唯一絶対の指導者とイデオロギーと理想と正義によって支配される世界、そう遠くない過去に人類が経験した既視感のあるあの地獄なのだろう。 平等・自由・平和の理想を謳う日本国憲法は人類の宝である。守ろう日本国憲法!(笑) #
by kschinkel
| 2021-09-10 17:02
| 雑談
2021年 01月 04日
第二次大戦中の1941年ナチスドイツが製作した反英プロパガンダ映画。 ヴェネツィア国際映画祭ムッソリーニ賞(最高賞)受賞作品。 一部シーンを除き冗長でつまらなかった。大衆の憎しみを扇動するプロパガンダ映画としては「ユダヤ人ジュース」の方が遥かに優れている。 イギリス人帝国主義者セシル・ローズとボーア人(17世紀以降南アフリカへ移住したオランダ人子孫)のトランスヴァール共和国大統領パウルス・クリューガーの対決を描いている。 多分余り面白くないのは悪役イギリス人も正義のボーア人もどっちもナチスの定義上、ドイツ人と同格の人種社会のスーパーマンたる北方系アーリア人種だからなのだろう。なにかこうグッとくる剥き出しの憎悪やキレの様な物に欠けている。 そもそもボーア戦争はダイヤモンドと金の利権を狙った当時世界最強国家の大英帝国が弱小トランスヴァール共和国をタコ殴りして植民地化した「侵略戦争」であり、当時から欧米社会ではボーア側に判官びいきの同情が集まっていた。この映画もその風潮に沿った凡庸なあらすじ。ナチスのプロパガンダ映画など如何に真実をグロテスクに捻じ曲げ、暴力とセックスで醜く残忍に表現してなんぼではないか。 因みにこのボーア人、白人が神、黒人が奴隷などという、聖書を一体どう読めば捻り出せるのか謎の教義を標榜するプロテスタント分派、オランダ改革派教会なる宗教を信仰しており、アパルトヘイトの旗振り役となっている。勝者の筈だったイギリス資本は市場経済の観点から人種差別政策に当初反対するも、全然歯が立たなかった。奴隷労働によって採掘される金とダイヤモンドはそれ自体が富を生み、真っ当な工業化も市場経済も南アフリカでは根づくことが無かったからである。市場経済においては人種間で賃金に高低差を付ければ高い側が失業するのが明白であったため、工業化は妨害された。こうして悪名高いイギリス帝国主義の斜め上を行く怪しげな人種社会が誕生し、1世紀もの間存続した。大戦中は当然にしてナチスドイツを支持。という訳で敗者のボーア人に全然同情心など湧きません(笑) 悪のイギリスを強調するためなのだろうが、牧歌的ボーア人生活風景がだらだら続き退屈である。 真にナチス映画らしい切れのある描写は3つ位しかなかった。 まず英国国教会の牧師が英国国歌ゴッド・セイブ・ザ・クィーンを歌いながら黒人を扇動しライフル銃を手渡すシーンである。牧師はまるでプロパガンダ上のユダヤ人や精神障害者の様な退廃した姿で描かれる。ヒトラーのキリスト教=ユダヤ人の陰謀という狂気の世界観が表現されていて素晴らしい。 そして渡されるライフル銃は、ナチによればサルと近縁の劣等人種たるニグロが北方系アーリア人たるボーア人を射殺するための武器なのだ。ラインラントの黒い恥とされたドイツ人女性とフランス黒人兵の間に生を受けた混血児達が一体どのような運命を辿ったか想起されたい。 しかしクリューガーが黒人酋長を言葉巧みに説得して武器を回収・・・・・・つまらない!!! 半ばユダヤ化した劣等なキリスト教牧師が黒人に殺人を扇動するという、せっかくの秀逸な前振りが台無し。この映画の監督はバカである。 まるで悪魔の様な大英帝国女王ヴィクトリアが死に際に「人々がお互いを憎むのをやめた日、イングランドは失われる」というセリフも渋い。イングランドをナチス・ドイツに置き換えれば誠にしっくりくる言葉である。 最大の見せ場は終盤イギリス人がボーア人を収奪・強姦・放火・強制収容・虐待・大量虐殺するシーンである。別にイギリス人でなくてもお前らにだけは言われたくないわボケとなる代物である。ボーア戦争で大英帝国はナチスやソ連に先駆けて世界で最初の強制収容所を創設したのだが、リスペクトのつもりなのだろうか? 1941年と言えば既にナチスは障害者やユダヤ人、共産主義者、その他「劣等」とされた人々を精神病院やゲットー、強制収容所で大量虐殺を開始しているのである。その筋の本職が製作しているだけあって「イギリス人」看守の残忍さが板についている。そしてチャーチルを想起させる堕落したデブの強制収容所所長は半世紀後の反ナチ映画「シンドラーのリスト」のアーモン・ゲート所長に代表される悪の強制収容所所長像の映画史上最初のひな型なのだろう。 最後強制収容所の死刑台でかつて英国びいきであったクリューガーの息子が公開処刑され、暴徒化した被収容者ボーア人が大量虐殺されて終了。ゲッベルスが敬愛したユダヤ人映画監督エイゼンシュテインの影響を受けたこのラストシーンはなかなか秀逸である。もう何というか「どの口が言う」「目くそ鼻くそを嗤う」というキャッチコピーがぴったりのバカバカしいナチスプロパガンダ映画。 #
by kschinkel
| 2021-01-04 19:29
| 映画
2020年 08月 15日
栗林中将扮する渡辺謙がスタイリッシュすぎる。 軍服の構築的な立体感が美しくどう見てもアメリカの超一流ビスポークテーラーの作品である。どの国でも将校は制服をオーダーすることが多いが、日本のテーラーが作る服は時代関係なく着物の伝統からか立体感が無くノッペリしていなくてはならない。 話ことばも栗林中将のアメリカ帰りのリベラルっぽさを演出しているつもりなのか、所謂関東共通語で違和感ありまくりである。帝国陸軍の様な巨大組織のエリート構成員は上へ行けば行くほど純化される。軍人の鑑にして規範たる高級将校は断じて軍隊言葉であるべきだ。 総じて栗林中将を陸軍内で異色のアメリカ的合理主義者として描いているのは問題がある。確かに牟田口廉也や花谷正の如き根性論一本槍の典型的馬鹿将校に対して、無謀な白兵戦(敵の士気が低く装備の薄い対中戦では有効な戦術であった)を避け、島を要塞化し、ゲリラ戦を遂行している点は異なっている。 しかし硫黄島戦の前例のより小規模なペリリュー島戦において既に同じゲリラ戦法が遂行されている(結末もほぼ同じ)。つまり栗林中将は映画に描かれた反骨のアイディアマンなどではない。堀栄三少佐以下、東京の陸軍参謀本部によって分析・立案・指導された戦法を忠実に執行しているのである。 おまけに指揮下の兵士2万人はほぼ全員戦死あるいは自殺突撃による玉砕の上、硫黄島は陥落しており、映画に描かれている様なアメリカ的な合理主義者などでは決してない。ゲリラ戦としては「成功」だったのだろうが、兵士の死亡率は指揮系統の無能と腐敗による抗命者や離脱者が続出したインパール作戦などよりも遥かに酷い。 栗林の大規模ゲリラ玉砕戦は軍部はおろか陸海軍大元帥、昭和天皇によって高く評価され、国民とマスコミは熱狂し、沖縄戦において遥かに巨大な規模で地元住民をも巻き込む地獄の扉が開かれた。アイヒマンのユダヤ人移送ではないが、狂った組織で有能な男が大真面目に指揮を執ってしまった結末である。栗林中将はあの悪しき帝国陸軍精神の一変種の域を全く出ていないどころか、ある種の理想を体現していた。ペリリュー島、硫黄島、沖縄と無限に拡大していく帝国陸海軍の狂気の皆殺しゲリラ玉砕戦争による異常な人的損害はアメリカ軍を震え上がらせ、本土上陸戦を回避すべく原子爆弾投下へと至ったのであった。 脚本を書いたのは日系アメリカ人二世のエリートエンジニアらしいのだが、日本軍のリアルな吉外感はよく出ている。 傑作なのが犬の鳴き声が陸軍の通信妨害などと称して憲兵隊がそこら辺の飼い犬を射殺するシーンでアホという他無い。これぞ日本式自粛警察支配の発露というべきか。 典型的な吉外将校の精神論講義も優れている。 ひょろい二等兵主人公役がジャニーズの芸人というのも悪くない。パン屋を憲兵に潰され、徴兵されて軍務を嫌々やらされていたのが、栗林の薫陶を受け、狂信的な陸軍兵士になり、最後捕虜になる感じは、人間が如何に不条理でデタラメな生物であるかを示している。 アマゾンの感想を見ると彼らの自己犠牲の上に今の平和な日本があるという一見センチメンタルで陳腐な感動意見が目立つのは唖然とさせられる。ネット右翼じみた彼らの思考回路は敗戦国特有の卑屈な愛国心によって倒錯しているのかもしれない。 しかし残念ながら客観的にはこれは事実なのだ。硫黄島の戦いで典型的に表れた旧軍の強制的な徴兵と狂気の玉砕精神、破滅的な末路は、日本国民に国防や軍隊に対する生物学的な忌避感を湧き上がらせた。畢竟我々は国民である以前に生物である。国民共同体のために死をいとわず武力で外敵を放逐する事を志願する者は沢山いるのだろう。しかし硫黄島に代表される国家による百パーセントの死の強制など誰も欲しはしない。だから多くの日本国民はアメリカ占領軍による旧軍解体と戦争指導者の処刑を自発的に歓迎し、剰えかつての敵国軍に国防を委任した。こうして我が国は世界最強軍事国家に対する服従と朝貢を引き換えに安全保障と経済成長の成果を享受し、「平和国家」日本を構築したのであった… ↑この映画は史実の一体どこを歪曲したのだろうか? ↑この映画は誰がいかなる層に対して、一体何を訴えかけることを意図しているのだろうか? 偽りのアメリカナイズされた敗軍の将を英雄とした、アメリカ合衆国による優れた対日プロパガンダ戦争映画。 #
by kschinkel
| 2020-08-15 19:42
| 映画
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