映画「ヒトラーへの285枚の葉書」の感想 |
息子を戦争で亡くし、同じアパートのユダヤ人未亡人が近所の平凡な市民達になぶり殺され、ヒトラーが始めた戦争とナチ全体主義体制の矛盾に嫌気が差した労働者夫妻が、手書きの反ナチ平和カードをベルリン市内にばらまき続け、ゲシュタポ刑事による捜査で摘発、処刑される話。
そっくりな概要の映画が「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」として約10年前に映画化されている。いちいち陳腐な感想を書き連ねるのが恥ずかしくなる位優れた映画で、これと類似のテーマで作るのはプレッシャーではないかと思う。
しかもノンフィクションかつドイツ映画の「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」に対して、こちらは史実を下敷きにしたフィクション、おまけに監督はフランス人、主演はハリウッド俳優である。そそらない要素満載だが・・・・・・
異なる構成となり、良い出来となったように見える。
「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」のショル兄弟は南ドイツの支配階級出身で、世界的に著名な名門大学ルートヴィヒ・マクシミリアン・ミュンヘン大学生、つまり青少年エリートなのだが、こちらは北ドイツ・ベルリンの平凡な一中年労働者である。全く正反対の境遇の人間が同じ反ナチ行為にたどり着いた経緯は異なる。ゾフィー・ショルの場合法学や哲学の原則から導き出された演繹によった。対して中年労働者は日常の経験の蓄積から導き出された要諦、つまり帰納法に基づいている。
まず最愛の息子が戦死するシーンから始まる。近年テレビゲームのように紛争で沢山人が死ぬのを俯瞰的に見るのが流行るが実際の一人一人の兵士の死は生々しくみじめで悍ましいものである。
戦死通知書が送られてきた労働者は、工場のイデオロギー集会で工場付ナチ党員プロパガンディストに対して、工場生産体制におまえらの存在は無駄だと公然と言い放つ。戦没家族の怒りに他の工員もプロパガンディストのナチ党員も押し黙るしかない。
労働者と同じアパートにはローゼンタールという老婆がいた。ローゼンというのは典型的なユダヤ系の姓に用いられる「薔薇」の意味のドイツ語である。オープニングから何となく不吉な感じがするが・・・・やはり近所の貧しい市民達は老婆の家に押し入り金品を強奪する。彼女を庇うのは同棟の裕福な判事と食糧を闇で届ける女性郵便配達員のみ。ゲシュタポに発見され追い詰められた老婆は、自分をゲシュタポに売ったヒトラーユーゲントの近所の少年に対して、少年との昔の楽しい思い出話を語った後飛び降り自殺する。かなり酷い話だがあの時代のドイツにあっては実際に日常的な光景であったことが、当時の記録を読めば判るだろう。
他にもこの種のゴミの様な現実が積み重なり、労働者夫妻はその諸悪の根源を理解する。それはヒトラーとその一味が支配するナチ全体主義体制であった。夫妻は手書きの激烈な反ナチのメッセージカードをベルリン市中に巧みにばら撒き始める・・・・
ここから先はゲシュタポ刑事の青年と労働者夫婦の刑事サスペンス仕立てである。これはこれで面白いのだが、ただ一つ興ざめなのが、現場の背広のゲシュタポ刑事に対し、異なる上部組織として制服の親衛隊を表現している点である。これは完全な嘘で、ナチ体制にあってはゲシュタポ(国家秘密警察)だろうと通常の治安警察だろうと、全てのドイツ警察組織はナチス親衛隊の一部門であって、その様な区切りなど全く存在しない。これは映画の構成上意図的な嘘なのだが、他がかなり史実に基づいているだけに残念である。
このゲシュタポ刑事青年自体はなんとなく善良そうな感じだが、上司の親衛隊のSD大佐のおっさんは典型的な極悪ナチとして描かれる。一般的に映画のナチの村芝居風の悪役の表現は大抵嘘くさくて興ざめである。しかし今回の悪役のSD大佐に違和感はない。なぜならSDの佐官級以上など、これぞ本物中の本物というのか、ハイドリッヒ以下見事にほぼ全員大量虐殺者、高学歴ナチ・エリートばかりである(ex.1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 ・・・・・)。
彼ら一人一人が一体何者であったにせよ、正常な思考回路を持つ人間の集団ではなかったことだけは確かである。
秀逸なのがゲシュタポ刑事が冤罪で捕まった別の労働者を釈放したら、SD大佐が「なにやってんねんボケ!二日以内にそいつを殺してこい!!」などとブチ切れてゲシュタポ刑事をぶん殴るシーンだろう。
しかしSD大佐は感情にまかせて無理筋を言っているのではない。
・もし彼が本当に犯人であれば、この一件は司法手続き抜きで解決する。
・もし彼が冤罪であれば、この反ナチカードを拾ったり、少しでも嫌疑が疑われるような者は死ぬことを大衆に暗示することができる。
という人権の概念が終焉した全体主義国家における、謀略機関特有の犯罪的論理に従っているに過ぎないのである。
結局労働者のコートのポケットの底が破けて職場にカードを落とすという、あっけない幕引きでこのサスペンス・スリルは終了。
SD大佐は直々に労働者を血塗れになるまで拷問にかけるのだが、この時の歪んだ笑顔も素敵である。この種のエリートは時代、国を問わず、我々大衆とは異なり、生まれてからずっと、母親から、家族から、学校から、社会から、組織から、国家から勝利することを期待され教育され強制され、大部分の人間が競争から脱落していく中で、聡明な頭脳と鋼鉄の意志で実際に勝利し続けたのであろう。勝利と栄光の果てにある本質的に空虚な笑顔・・・・生存闘争に勝利することへの固執はまた、ナチイデオロギーの根幹をなしていた。
労働者夫妻は民族裁判所へ送致、即決裁判の上当然にしてギロチン断頭台で処刑される。「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」を明らかに意識しており、この辺のシーンは殆ど概略のみ。
ゲシュタポ刑事もまたナチイデオロギーに嫌気がさして、街路に労働者の反ナチカードをぶちまけて自殺・・・・で終了。
一般的な見どころは労働者夫妻の渋い演技と的確な人物描写であろうか。特に主役の労働者はいかにも堅物でまじめで部下から慕われそうな工場労働者といった感じが出ている。労働者の妻も切れる感じの元美人で、良き夫婦といったところ。
時代考証や建造物などの風景は完璧である。実際のベルリンの他(多分博物館島のカフェのシーン)、ケルンと、坂が印象的な主な街並みはザクセン・ポーランド国境、上部シュレジエンの街、ゲルリッツで撮影された。ベルリンでは破壊されてしまった19世紀プロイセンの新市街の街並みが破壊されずそのまま保存されているためであろう。個人的なお気に入りは黒くて死んだ雰囲気のSD大佐の事務所である。
人物描写、演出、脚本、時代考証、全てが比較的優れた佳作。